諏訪の海苔行商の歴史まとめ

諏訪は冬の農閑期には仕事が無く、副業することが普通であった。

鋸作り、氷豆腐、氷餅、寒天づくり等。

江戸へ出稼ぎに行くこともあり、

品川・大森への海苔問屋への丁稚奉公することが多かった。

海苔の収穫時期は11月から3月頃。

まさに農閑期にはうってつけの仕事であった。

冬の寒さに強い諏訪人は、海苔問屋からの需要が大きかった。

主な仕事としては、大森の海苔生産者からの買付けや、

浅草(のちに日本橋が主流になる)の問屋への海苔卸販売。

毎日、大森ー浅草(日本橋)間の約15kmを、

荷物を背負って何往復もしていた。

諏訪人の中には、独立し、世話になった大森の問屋から海苔を買付し、

自身で売り歩くようになった。日本橋へ売りに行く、江戸売り。

その他地域へ売り歩く旅師と呼ばれた。

1820年には、諏訪の海苔商人、森田彦之亟が舞阪(浜松市)に

海苔の製造を伝授したように、各地の海苔産業発達に諏訪人は貢献してきた。

元来百姓としての生真面目な性格、また諏訪大社の霊水、境内の砂が、

海苔づくりに役立つというご利益もあり、諏訪人は重宝された。

江戸売りや旅師など、独立する諏訪人は増えたが、

諏訪人同士がお互いに協力し合う地合いはなかった。

江戸へ出稼ぎに行くときには、必ず諏訪明神へ旅の無事を祈るように、

諏訪明神とのつながりは深くとあった。

1852年には、諏訪人たちで、諏訪大社への感謝をこめ、上社へ神楽を奉納した。

1860年には、諏訪人たちの組合、「御湯花講」を結成する。

日本大学の3代目総長でもある、山岡万之助は、諏訪郡湊村生まれ。

1891年に大森の海苔問屋へ奉公し、よく翌年には独立していた。

1942年、戦争が激化し、海苔が配給制になったとともに、

地元店舗を構える問屋以外は商売できなくなり、諏訪の海苔商人たちは仕事がなくなってしまった。

長年の海苔商売で培われた目利き力を生かし、海苔検査員として活躍していった。

1945年の終戦以降、諏訪の人たちは再び東京、千葉へ海苔問屋として一旗揚げるため、

再び戻って店を構えていったが、

1960年頃から始まっていった東京湾の埋め立てにより、

江戸前の海苔は次第に姿を消していった。

現在では、千葉県で江戸前ちば海苔が養殖されており、

販売拡大にむけた挑戦を続けている。

諏訪の海苔行商は過去のものとなってしまい、

人々の記憶からはなくなっているが、

江戸の海苔を支えた、

諏訪の出稼ぎ海苔行商に想いを馳せたい。

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